希望の行方33

濃密な空気が身体を包む。
馬車から降りた途端、オスカルが感じたのは息苦しさだった。
行きかう人々のざわめきとパリ特有の濁った空気が、細かな水滴のように彼女の全身に触れるたび衣服や肌に染み込んでいく。
「ここでよい。帰りは辻馬車を拾うつもりだ。」
深呼吸をしても肺を清らかな空気で満つこともなく、オスカルは浅い呼吸を繰り返したあと、そう告げる。
ロザリーの家の近くまで送り届けてきたジャルジェ家の御者は、いつものことなので何の疑問も見せずに頷き、馬車を返そうとした。
「ああ、待て。」
ふと気が変わり、オスカルは彼を呼び止める。
「やはり、夕方ごろにアンドレに迎えにくるよう言っておいてくれ。」
「はい、アンドレにですね。承知しました。」
屋敷の者たちは皆、主従というよりも兄と弟のような二人の関係に慣れっこだったので、この御者も、辻馬車を使うよりもその方が安全だとばかりに、柔らかな表情を浮かべた。
人も馬車も行きかう大通りを慣れた手際で走っていく馬車を見届けたあと、オスカルは踵をかえし歩き出す。
最初の頃はロザリーの家のかなり近くまで馬車をつけていたものだが、見るからに貴族然とした馬車である、あまりに頻繁に出入りしてベルナールとロザリーに悪い噂がたっては困ると、この頃は二区間ほど離れた場所から歩くことにしていた。
質素ななりのオスカルであったが、すれ違った幾人かの女性が・・中には男性も・・振り向き見る。
だが、物思いにふけりながら歩いているオスカルは、そんな視線にも気づかない。
「ふう・・」
押さえきれないため息が漏れる。
決断しなければならないことが山のようにあるのに、それに手を触れるのを恐れている自分が情けなくもあったが、かってフェルゼンに恋していた頃の自分がそうだったことを思い出す。
あの片恋に苦しんだ日々の思い出はもう、淡雪のようなひんやりとした感触を残しながら、懐かしい思い出として消えていこうとしている。
・・・フェルゼン、お前は今の私をどう思うのか・・
尋ねることのない問いであった。
面倒に巻き込まれぬよう、人目につかないくすんだ色の上着の前をオスカルは掻き合わせる。
その中に恐らく、アンドレと愛し愛された証がいるはずだった。そしてそれは紛れもなく自分が女であるという証でもある。
あの一夜の、思い出すだけで頬が赤らむ記憶と、常に微かに疼いている身体には、フェルゼンを思っていた頃の清らかさは、もうない。
そう、もう軍人として、潔癖なほどに国と王妃とを支えていた自分には、もう戻れないのだ。
寂しいのか・・とオスカルは何度も自分に問うた。
寂しいが、もうあの場所は私の居場所ではない・・と彼女は何度も答える。
では、衛兵隊を離れるのが寂しいのか・・と問うと、
寂しい・・と彼女の心はすぐさま答える。
ブイエ将軍の落馬事件の日、オスカルと部下たちの何かが変わった。
あれからすでに二週間が経とうとしており、営倉入りしたアランたちもすでに通常の任務に戻っている。
衛兵隊自体に、別段大きな変化はない。
彼らがすぐさま真面目になるわけがないし、相変わらず文句も多く、宿舎でも食事や賭け事のいざこざはやはり絶えない。
だが、オスカルが注意をすると、彼らは口をとがらせながらも言うことをきくし、一たび命令を下すと、責任のある者は部下に簡潔に伝達し、下の者は即座に動く。
ここにきてようやく、組織として機能しだしたのである。
「皮肉なものだ・・・な。」
嬉しい反面、いっそ自分など受け入れてくれなければこうも悩むこともないのに、との自分勝手な思いもあった。
「あっ」
肩がぶつかる。
すれ違った男が舌打ちをしながら振り返ったが、オスカルの姿をまじまじと見ると、急に卑屈な表情に変わり、そそくさと消えていった。
怒る気にもならず、オスカルは再びため息をつき、ロザリーの家に向かう。
ロザリー以外、オスカルには相談する相手がいなかった。
いや、彼女以外にこのようなこと、相談できるはずもない。
本来なら・・祝福された婚姻によってもたらされた命であったなら、母はもちろん、父にもばあやにも、そして子供の父親にも即座に告げることができ、医者の見立ても受けることができるのに、道から外れたオスカルは、未だ孤独であった。
これが、国王陛下の許しのもとの結果であれば、一時は出産のために衛兵隊の任務から外れても、将来復帰することもあるのだろう。彼女が人生の大半を捧げた軍人という生き方を捨て去ることはないのだ。
だが。
この腹の子の父は平民だった。
しかも、己の従者であった。
オスカルには、身分に対する差別意識は皆無である。むしろ、見たい物しか見えない貴族連中には軽蔑さえ覚えているのだから、アンドレを愛することに何の疑問も躊躇もない。むしろ躊躇し、自分を抱くことを恐れたのはアンドレの方だった。
その彼に愛を請うたのは、オスカルである。
なのに。
・・毎夜感じるこの不安は何なのだ・・
もう幾夜もろくに眠れない夜を彼女は過ごしていた。
明かりもない真っ暗な寝室の中で、これから訪れるであろう未来を見つめていると、闇しか見えない・・。
・・未来の私が避けようとした危険でさえ、私なら乗り越えられると思えたのに、なぜ・・
すぐにアンドレに告げていれば、未知の生活への不安など彼なら笑って払拭してくれたのだろう。
お前は何も心配するな、俺に任せておけ、お前と子供ぐらい俺が食わせてやる・・彼ならきっとこう言ったはずだ。
また、腹に子を宿していないオスカルであれば、どんな環境にも飛び込んでいけただろう。
お前の面倒ぐらい私が見てやる、安心してついてこい・・と、逆にアンドレを勇気付けたはずだ。
「ああ、どうしようもないことだ・・」
非番の今日、ロザリーの元に足を運んだのは、情けない自分に活をいれてもらうためである。ロザリーなら、目の前の壁など物ともしない明るい一声で、オスカルの目を覚ましてくれるはずだ。
そして、オスカルとは面識のない町医者を紹介してもらい、これからの生活の良き相談相手になってくれるだろう。
ベルナール宅の扉を叩くと、待ち構えていたように扉が開いた。
訪れることは知らせていないのにと、オスカルが驚くと、中から慌てふためいたロザリーが現れた。
「まあ!オスカル様!」
ロザリーもオスカルの姿を認めて驚いていた。
「まあ!まあ!いらっしゃるなんて!驚きましたわ!」
顔一面に喜びを溢れさせながらも、ロザリーはおろおろと入り口を出たり入ったり、そして扉を開けようとしたかと思うと、閉めるそぶりを見せたり、全く落ち着かない様子だった。
「・・どうしたのだい、ロザリー?何か取り込み中だったのかな?」
オスカルが尋ねると、ロザリーはいいえ、と、ええ、を続けて言う。
「あの、オスカル様、違うんです。何かが起きたわけではないのです。だけど、急に気になることがあって・・・」
「気になること?」
口に手を当てながらまだウロウロしているロザリーの肩に手を置き、落ち着かせるようにオスカルは声を掛ける。
「まず落ち着いておくれ、私でよければ話を聞くよ。」
「・・ああ、オスカル様!」
すがるようにオスカルの腕をとったロザリーが言う。
「・・ディアンヌのことなのです!」
「ディアンヌの?」
面会日に見知って以来、ディアンヌがこの家に幾度か訪問していることはオスカルも聞いていた。お互いのためにとても良いことだと、勧めもしたのだ。
「ああ、オスカル様!私、見てしまったんです。あれは・・間違いなくディアンヌの婚約者ですわ・・!」
「婚約者?」
いきなりの言葉に、オスカルは頭を押さえるが、自分も以前にその婚約者の姿を見た記憶がよみがえる。
「・・・ああ、私も会ったことがある。わずかな時間だったけどね。彼がどうかしたのかい、ロザリー?」
「裏切者ですわ!」
ロザリーは叫ぶ。
「あの人、ディアンヌを裏切っているんですわ!」
「どういう・・?」
事情が呑み込めないオスカルに、ロザリーは畳みかけるように訴える。
「わ、私、見たんです、さっき買い物に出たときに・・あの人が、別の女性と仲良く歩いているのを!わ、私・・」
すみれ色の大きな瞳に涙が盛り上がる。
「私、私、ディアンヌが気の毒で悔しくて、じっとしてられなくて、確かめたくて・・!」
「ロザリー・・」
その泣き顔を見ながら、オスカルは胸に黒いものが引っかかるのを感じた。
・・あの男か・・
一見は誠実そうな外見なのに、どこか危ういものを感じさせる男であった。
「落ち着いて、まず詳しい話を聞かせておくれ。」
そう言って、ロザリーの肩を抱き、家の中にオスカルは入っていく。
やさしく清潔な香りが漂っている。
オスカルが秘密を打ち明けるべき場所であったそこには、別の不穏な空気が満ち始めていた。


スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

ありがとうございます

ありがとうございます!!
毎日アップされることを楽しみにしていました。

予想外の展開でした。
素晴らしいー
んーこれからどうなるかワクワクしています。

ひろぴー様

大変お待たせしました!

予想外でしたか。
私も予想外でした。何故だかこうなりました。
次回もゆ~~~~~~~っくりとお待ちくださいね!

No title

ああ、とりあえず息をつくことができました・・・((+_+))

まずロザリーの家に無事たどり着くのか?
そこから怖くて…!

でもやっと着いたら、いきなりディアンヌのあれこれで!
ホントに心臓に悪いです~!( *´艸`)💦

はやく安心したいような、はたまた
もっとじらされたいような・・・

ゆっくり、そしてじりじりと・・・
お待ち申し上げております!(S?)

アンドレ~っ‼︎

オスカルの孤独な苦悩…あぁ、アンドレに伝えてないところが辛いです~ 泣

ロザリーに話して、どんな展開になるかと思いきや、最後にどんでん返しが~‼︎

横道それちゃって、オスカル様なかなか苦しみループから抜け出せそうもないですね~。

悩めるオスカルに同化しきって夢中で読ませていただきました。やっぱり、こういう時はアンドレが恋しいっ‼︎

でも、そう簡単にはいかないのでしょうね~。

更新ありがとうございます♡ゆっくりじっくり楽しませていただき、幸せです♡

あんぴか様

全く先の読めない展開になりました。
どうなるのでしょうね・・

これから先、なるだけスピーディーにいきたいものです。

安心はされないことをおすすめします・・
では、また!

mars様

アンドレにだからこそ言えない苦しさです・・ということで。

この「希望の行方」は、ディアンヌの希望の行方も見届けるつもりです。

ここから視点はどんどん変わりますが、早い展開を目指していきます。
問題は・・いつ更新できるか・・ですが、その辺は相変わらずゆっくりと行きますので、よろしくです!

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

す・・様

更新お待たせしました。
まったく月日が経つのは早いものです。

この先、できればディアンヌも助かればいいな・・と個人的願望がありますが、どうなるか分かりません。

ともかく、いずれ眠れない夜が、す・・様に訪れるでしょう。
では、また!

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

ポ・・様

いえいえ、私の方こそ、折角皆様にコメントを頂戴しながら、同じようなお返事ばかりを繰り返しております・・

今回、思いのほか、ロザリーの家にたどり着くまでドキドキさせてしまいましたね。
まだまだこれからでございますよ。
まあ、想像通りには進まないのは、間違いありません。

では、また!
プロフィール

kakonokaori

Author:kakonokaori
「ベルサイユのばら」の二次創作です。個人的な楽しみで執筆しております。原作関係者の方々よりクレームを受けた際には、中止します。お目汚しではございますが、お好きな方はご訪問下さいませ。

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ