希望の行方39

その姿に、最初に気づいたのは、ロザリーだった。
叫び声をあげたロザリーが震えながら指さしたのは、教会を支えるように寄り添っている塔の上である。
「ディアンヌ!」
オスカルは叫んだ。
長い黒髪の清楚な女性は、切り出したような窓に静かにたたずんでいた。
「ディアンヌ!」
再び叫ぶオスカルに、驚くほど静謐な眼差しが落とされる。オスカルとロザリーの姿を認めたのか、その青ざめた頬に、ひっそりと笑みが浮かんだ。
背中にゾクリとするものが走り、オスカルは血の気が引いていくのが分かった。
ディアンヌは、ただ窓から景色を眺めているのではない。その足は窓をすでに乗り越え、その外に巡らされている飾りのようなわずかな隙間に置かれていたからだ。その隙間は、ディアンヌの華奢な足ですらはみ出すほど狭かった。
・・・飛び降りるつもりか。
死を。
ディアンヌは、死を選んだのだ。
愛する者に裏切られたために、死を。
「・・ああ、だめ・・」
ロザリーが震えながらつぶやいていた。
「だめ・・だめよ・・シャルロット・・・」
「ロザリー・・?」
腕にしがみついてくるロザリーの手の震えが、オスカルの中にも未だ残っている辛い記憶を呼び覚ましてくる。
ロザリーと同じ母を持つ妹は、姉妹と名乗り合わないまま死んだ。
生母の野望のための政略結婚を忌み嫌ったシャルロットは、ベルサイユの大階段から身を投じ、自らの命を絶ったのだ。
・・・そうだ、あの時、私は・・・
オスカルの手に、届かなかった彼女の手の感触が甦る。
皮肉にも、シャルロットの母の放った刺客によって、オスカルは大けがを負い、あと一歩のところで、まだ十代だった少女の細い腕を掴み切れなかったのだ。
「オスカル様、オスカル様・・あの子のように死ぬのは、嫌。シャルロットのような哀しいことは、もう決して起きては、嫌ですわ!」
取り乱したロザリーの必死の訴えに、オスカルはすぐさま走り出した。塔の入り口の木の扉は開いており、開け放つと、薄暗い螺旋階段があった。
・・・間に合ってくれ!
氷のような冷えた固まりが胸につかえ、ただただオスカルは駆け上がる。汗ばみ、息があがったが、ディアンヌを救うことしか頭にはなかった。
塔の頂上にたどり着いたことを、風が教えてくれた。
恐らくこの教会が建てられたころには、ここに鐘が備えられていたのだろう、地上とは温度の違う風が吹き抜けていくそこには、鐘が下がっていた設備の跡が天井に残っていた。錆がそこここに浮かんでいる。
寂しい場所だった。
愛し合う男女であるならば、この場所にも美しい未来が見えるのだろうが、そうでなくば、見捨てられつつある教会の姿を如実にあらわしていて、見るものがふと色を失うような空虚な感覚に襲われる。
街の喧騒が遠くに聞こえ、煙に曇った空が広がる。
荒い息を整えながらオスカルが見つめる先に、その空に溶け、消えてなくなりそうなディアンヌの背中があった。
刺激を与えぬように、オスカルはゆっくりと近づく。
「そこは、風が強いでしょう、ディアンヌ嬢。」
あくまで穏やかにオスカルは声を掛ける。
「・・・ロザリーと私は、あなたを散歩にお誘いに参ったのですよ。如何でしょう、私たちとゆっくりお話ししませんか?あなたは、私たちの大事な友人なのですよ。」
ゆっくりと近づいたオスカルは、一定の距離を残して止まった。それは何が起きてもディアンヌの腕を捕らえられるギリギリの距離だった。
ディアンヌは振り向かなかった。
だが、黒髪が微かに傾げられ、耳には届いている様子が見てとれる。
オスカルは続けて言う。
「ディアンヌ・・・私に何ができるか分からない。君の兄上たちの前では大きな顔をしているが、中身はとても未熟な人間でしかなく、今まで数々の失敗を犯してきたのですよ。人を傷つけ、大事な人間を苦しめ・・・人を殺めたことさえあるのです、私が直接手を下さなくともね。」
アンドレが、ロザリーが、シャルロットが、ジャンヌが、そしてパリで撃ち殺された少年や、ポリニャック伯婦人の策略の巻き添えになり毒殺された侍女、決して幸福にはなれない王妃、自分に救いを求めてきたのに拒絶したフェルゼン・・・多くの人間の顔が、目に浮かぶ。
「そんな私ですが、今でも思うのです。誰かを助けたいと。いや・・・誰をも助けたいと、そう願ってやまないのですよ。ふふ、身の程しらずな望みなのでしょうけどね。」
素直な自嘲の笑いが浮かぶ。小さな器量の自分に打ちのめされながら生きてきたのに、まだそのような大それたことを自分は考えているのかと、オスカルはおかしかった。
「いや、これはあまりに身の程を知らなさすぎる・・私は神の教えに背いた人間なのだから。いや、教会の教えというべきかな・・」
神の御前で契りも交わさずに、男性と身体を重ねたことは、果たして罪になるのだろうか・・とオスカルはふいに迷う。だがそれが無くても、数々の命を救えなかった自分はもうとっくに無垢ではないのだと、思い至る。せめて目の前のディアンヌだけは助けたいと、ただ願っていた。
「ディアンヌ!」
下から大きな男の声が響いた。
アランだった。
「馬鹿野郎!そんなところで何をしている!」
「・・・お兄様・・・」
ディアンヌの身体が微かに揺れた。
「待ってろ!すぐそこに行くからな!早まるな!」
妹の身を必死に案じる兄の声がさらに響いた。
しかし、ディアンヌは頭を振る。
「いや!お兄様!来ないで!来たら飛び降りますわ!」
「おい・・・馬鹿!何言ってんだ!」
アランのぎょっとした声がした。
ディアンヌは身を宙に乗り出そうとする。
「オスカル様も来ないで!」
腕を掴もうとしたオスカルを振り向き、ディアンヌは叫んだ。
「私は、哀しいから飛び降りようとしているのではありませんわ!」
黒い瞳に宿っている光は、強かった。
「・・・どういうことなのだ?ディアンヌ嬢。」
その迫力に押され、オスカルは手を引いた。
「では、なぜ・・・飛び降りようとしているんだい?その理由を教えてくれないか・・?」
嘘偽りなく見つめるオスカルの眼差しに、ふいにディアンヌの表情が緩んだ。
「・・オスカル様・・?」
「ん、なんだい?」
「オスカル様は、男性を心から愛したことがおありでしょうか?」
アランに似た黒い瞳が真っすぐ向けられる。
「ご自分の幸せよりも、愛する方の幸せを願い、その方のためなら命さえ惜しくない・・・それほど男性を愛したことはございますか・・?」
意外な質問に、オスカルは虚をつかれたが、真面目にうなずき答えた。
「ああ・・あるよ。」
アンドレの顔が、体温が、離れていても常に傍にいた。今でさえ、アンドレの熱が、まるで近くにいるかのように感じられる。
「愛しているよ、今もこれからも、永遠に・・。」
目をつぶりながら、オスカルは答えた。
「私は未熟で自分勝手な人間だから、長い間彼を苦しめてきていてね、今でも隠し事もあるし、随分悲しい思いもさせているのだろう。だが、愛している。あいつの幸せのために、私の命が必要ならいつでもくれてやるさ。」
「まあ・・・」
思いがけない返答だったからか、ディアンヌは空に乗り出していた身体を、一旦窓にあずけてくる。
「不思議ですわ。」
笑みすら浮かべて彼女は言った。
「オスカル様と私、外見も身分も全く違いますのに、どこか似ているものを感じておりましたの。私は嬉しい。オスカル様に巡り合えて、ロザリーさんにも。そして、兄の上司がオスカル様でいて下さって。」
「・・・ディアンヌ嬢?」
「私ね、オスカル様・・・あの人とここで出会いましたの。教会に通っておりましたある日、この塔の上を見上げると、あの人がぼんやりと空を眺めておりましたの。その姿が気になって見詰めていた私に、あの人が気付いて、恥ずかしそうな笑みを浮かべて・・・」
思い出を探そうとするように、ディアンヌは地面を見下ろす。かって初々しく頬を染めていた彼女の姿があった場所に、恐らくアランが立ちすくんでいるのだろう。
「・・・あの人が悪いのではありませんわ。仕方のないことでしたの。あの人の家には、借金がございましたの。あの人はいつもそれを気に病んでおりました。兄のようにたくましくもなく、いつもどこか自信なさげで・・・とても優しい人でしたのに、身分と生活に押しつぶされそうになっておりました・・・」
チラリと窺える横顔はとても静かなものだった。
「私と結婚しても・・・あの人は自信がもてないまま、何者にもなれないまま生きていかなければならなかったのでしょう。そこから抜け出すために、あの人が選んだ道なら・・・私は、私には止めることはできません・・・」
「・・・では、なぜ、あなたは命を絶たれようとするのです。私たちが来なければ、一人でここから飛び降りていたのですね。」
「・・・ええ。」
ディアンヌは頷いた。
「私が生きていれば、あの人は苦しみます。私がいなくなれば、最初は驚きもするでしょうが、いずれ時の流れの中で、私のことは忘れていくでしょう。人間には生活がございますもの。この世にいない者のことにいつまでも心を留めていられませんわ。」
「それは、違う!」
オスカルは慌てて否定した。
「この世にいない人間は、もう救うことができないのです!責めることも、許しを請うこともできない!私もロザリーも、ずっと心の奥底で苦しみ続けてきたのですよ。ロザリーの妹は自殺し、ロザリーの姉は、私が死に追いやってしまった・・・」
「まあ・・・」
痛ましさが、ディアンヌの瞳ににじんだ。
「そんな、哀しいことが・・・」
「それに、ディアンヌ嬢、ご家族のお気持ちを考えて下さいませんか。アランもお母上も、どんなに悲しみ苦しまれるでしょう。」
いまだ死の扉の前から戻る気配のないディアンヌに、オスカルは意を決して話しかける。
「私にはとても耐えられない。なぜなら・・・私のお腹には、命が宿っているのですよ・・・もしこれが失われたなら、私はどれほど苦しむか分からない。そんな思いを、あなたの母上に味わわせるおつもりか・・・」
「まあ・・・オスカル様・・・」
驚きのあとに、眩しいものを見るようにディアンヌは首を傾げる。
「ああ、でも、オスカル様、ごめんなさい。私はもう・・・私は・・・本当はもう、耐えられないのです。このままでは・・・」
あえぐように彼女は浅い息をした。
「このままでは・・私は・・・あの人を憎んでしまう・・・憎んで、不幸を願ってしまう・・・」
影が動いた。
鳥のように、ディアンヌは空へと身を投げたのだ。
「ディアンヌ!」
オスカルは取り押さえようとしたが予想以上に早く、追ったオスカル自身までも空に舞い上がった。
パリの空は鈍い色を放っていた。






スポンサーサイト
プロフィール

kakonokaori

Author:kakonokaori
「ベルサイユのばら」の二次創作です。個人的な楽しみで執筆しております。原作関係者の方々よりクレームを受けた際には、中止します。お目汚しではございますが、お好きな方はご訪問下さいませ。

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ