希望の行方42

金色の波が優しく頬に触れる。
くすぐったいような、懐かしいような感触で目を開けたオスカルの前に、実りの時期をむかえた麦の穂に太陽の光が降り注いでいるごとくの、明るい平野が広がっていた。
穏やかな空気がゆっくりと身体の上に流れていく。
太陽の光は強くなり弱くなり、明るい模様を地面に描き出していく。
・・・これは夢・・
柔らかな地面の上で横たわりながら目を開けたオスカルは、その平和で美しい光景を見詰める。
だが胸に感じるのは幸福ではなく、密やかな悲しみであった。
・・・そうだ、私は・・・
目をつぶると、記憶がよみがえり始める。
ディアンヌを助け、アランと彼女を心配して待つ母のもとに送り届けたこと。
アンドレとロザリーと共に、シャトレ家に戻ったこと。
ロザリーにどう告げようかと、アンドレと微笑みながら瞳を交わし合ったこと・・・。
そして・・
横たわったまま、オスカルは両手で自らの腹部を押さえた。
そう、激しい痛みに襲われたのだ。
あまりの苦痛に耐えきれず、遠のく意識の向こうにアンドレとロザリーの叫び声を聞きながらオスカルが最後に感じたのは、床の冷たい固さだったはずだった。こんなに柔らかな地面ではなかった。
「・・・ここは、どこだ。」
見渡してもアンドレもロザリーもいない。
風も吹かぬのに、金の渦が巻き起こり、オスカルを包んだ。
このような風景など、彼女はもちろん知らない。
「この世のものとは思えぬな・・・」
自分の身に何が起こったのか・・・分からない。だが、自分の胎内にいた大切なものに何かが起こったのだということは想像がついた。
・・・分からない、お前はまだいるのか?
腹を押さえても、感じるのは空虚ばかり。
・・・お前は、ひょっとすると、もう・・・
涙があふれだした。
理屈ではなく、感情が、大切な、自分の命よりも大切なものがもうここにはいないと告げている。
声をあげてオスカルは泣いた。
顔を太陽から背け、両手で顔を覆いながら泣き続ける。
鳥の声も風の音もない空間に、嘆き声だけが響いている。
「・・すまない、アンドレ、アンドレ・・・」
ようやく必死に絞り出した声。
それと同時に金色が揺らぎ、その中から何かが現れた。
ゆっくりと、近づいてくる。
「・・・まったく、呆れたものだな。いつの時も私という人間は、アンドレと共にいるのだな・・・」
人の形をとった金色のものが言った。
「どうしようもなく不思議だとは思わないか?最初は剣の相手、すぐに遊び相手、それが従者となり、やがて恋人となった。もう何十年と傍にいると、いい加減飽きてもよさそうなものなのに、ふふ、いつまでたっても飽きることなどないとはな・・」
「誰だ、お前は!」
オスカルは慌てて身を起こす。
すると、目の前に柔らかな笑顔があった。
「・・・お前は・・?」
あまりの驚愕で言葉を失う。それもそのはずだった、それは・・
全く自分と同じ顔をした女だったからだ。
「ふん、自分の顔も見忘れたのか?」
可笑しそうに彼女は笑う。
「まあ、しかたあるまい。私とて、お前自身とこうして直接対面しようとは思わなかったのだから。」
そういった笑顔に、寂しいものがにじみ出る。
「お前は、誰だ。」
オスカルは問うた。すると彼女は答える。
「私は、いや・・・私もオスカル・フランソワ。お前が進むべき道の先に存在するお前だ。」
「どういうことだ・・・」
目の前の女は、衛兵隊の軍服に身を包んでいたが、その軍服には乾いた血の跡がそこここにこびりついている。異様な姿であった。だが、その横顔はまさしく自分のものであった。
オスカルには思い当たる節があった。かってエベーラの薬で眠っていた時に現れたという、もう一人の自分。ロザリーやル・ルーから聞き及んでいた・・・アンドレを愛し、彼を守るために、この身に宿ったもう一人の己。
「まさか、お前が・・・未来から来たという私だというのか・・・?」
軽い頷きが応える。
「どうして、私の前にも現れたのだ?お前はずっとここにいたのか?」
「・・・それは、分からない。私はお前の身体を離れたあと、ずっと眠るように漂っていた気がする。ここにもいつからいたのか、ここがどこかさえ、知らぬ。私はもう自分が人なのか、それとも魂なのか、それとも・・ただの幻影なのかさえ、知らぬ。」
静かな瞳で周りを見回す。そこには苦悩も絶望も越えた達観のような色が見えた。
食い入るように彼女を見つめていたオスカルは、低い声で言う。
「お前は・・・もう死んでいるのだな?・・・そういうことなのだな?」
予感といえるのか。
ル・ルーもロザリーも・・そしてアンドレも、未来から来た自分が助けようとしたのはアンドレだと告げた。誰もオスカル自身の未来に直接言及しようとは決してしない。
だが、変ではないかと考えることがあった。
ならばどうして未来の自分はここに現れたのか、と。
「私も・・・アンドレも・・・死ぬのだな。」
少しのためらいを見せて、彼女は頷いた。
「ああ、そうだ。」
「・・いつだ?」
「すぐではないが、もうそれほど遠い未来ではない。」
軍服にこびりついた血の色は黒く変色していた。金色の波がどれほど揺れて押し寄せようとも、その黒は隠せない。
オスカルは、深く息を吸い、吐く。
「・・・では、あの子にも、すぐに会えるのだな・・・」
消えてしまった大切なものに想いをはせると、不思議に死など怖くはなかった。
「いや、ここにいるということは、私もお前と同様、死んでいるということか・・・」
アンドレもいない、ロザリーもいない、金の野原。
「残念だが、お前はまだ死んでいない。それは私の役割ではないか。」
薄く彼女は笑った。
「どうやらここは天の国ではないようだぞ。私の心はまだ神の御前にたどり着いた平穏など感じてはいない。ここは、恐らくお前と私の心が作り上げた幻なのだろう。お前の助けを求める声が私を呼んだのだ。」
青い瞳がまっすぐ向けられる。どれほど上等な鏡を覗き込んでさえ、自分の瞳の色をこれだけ鮮やかに感じたことは、ない。
「お前は・・・アンドレを愛したのか?」
オスカルは、青い瞳に呟いた。
「ああ、愛した。私のアンドレも・・・お前のアンドレも・・・すまなかった・・・」
彼女は呟き返す。
「どうしても、もう一度、アンドレに抱かれたかったのだ・・・彼は私の夫なのだから・・・」
「夫・・・?」
「そうだろう?この身を許す男性など、夫以外にあるまい。」
「そうか・・・夫か・・・」
オスカルはクスリと笑う。
・・・アンドレ、どうやらお前は、夫に昇格したぞ。
塔から落下しようとした自分を必死に支えていたアンドレの熱い胸を思い出す。
・・・そうだ、お前以外に夫などいらぬ。
だが、彼の黒い瞳を思い出した途端、深い懺悔の念が全身を襲う。
「だ、だが、私には妻の資格など、ない。私は・・・彼から大切なものを奪ってしまった・・・」
俯き、体を震わせるオスカルの肩に、彼女がそっと触れた。
「子供のことか・・・残念であったな・・・。」
もとは一つである身に、悲しみが血のように流れていく。悲しめば悲しむほど、金色の渦は激しく二人を取り囲んだ。
「・・・だが、その子はどこにもいないのだよ。」
オスカルの背中に腕を回しながら、彼女は不思議そうに言った。
「お前の声が私を呼び覚ました時、確かにもう一つの小さな声を聞いたのだが・・ここにたどり着いた時には、もういなかった。一体、どこに行ったのか・・・神のもとにすでに参ったというのか、それとも、私より前に誰かが連れていったのか・・・」
「神の御前以外のどこに行くのだ!」
オスカルは叫ぶ。
「人は死ねばどこに行く!お前は神のもとに行かぬのか!それとも永遠にさすらうのか?お前のアンドレのように・・・!」
あの夜、砂漠の旅人のような渇望で自分を抱いたアンドレもまた、天の国にたどり着けぬ救われぬ者だった。
「私もアンドレも、結局は死んでもさまようのか?なぜ死ぬ?なぜ生きる!末路がそれなら、なぜ生きていかねばならぬのだ、私たちは!」
ドンドンと、こぶしで彼女の胸を叩く。彼女はその腕をそっととった。
「・・・私はまだ神のもとに行くわけにはいかないのだ。アンドレと約束したのだから、お前のアンドレとね、必ず生きて再会するとね。」
オスカルの手を、自分の心臓の上に導く。
「ここに約束の印がある。私は今でも・・・待っている。そうアンドレに伝えてくれ。頼む。」
激しく空気が動いた。
金の色がまるでバラの花びらのように散り、舞い上がり、それは二人をさらに激しく包んだかと思うと、やがてオスカルだけが取り残された。
彼女は、霞のように淡くなった金色の向こうに消えていこうとしていた。
「・・・オスカル・フランソワ・グランディエ・・・生きろ。何があっても生きろ・・・」
微かな声だけが、名残惜し気に残される。
「待ってくれ!私はまだ何も聞いておらぬ!アンドレと私はなぜ死ぬというのだ!」
こぶしを握り締めながら、オスカルは精一杯叫ぶ。
「お前は、どんな道を選んだのだ!私は、どの道を選ぶのだ!待て!まだ話があるのだ!あの子をもし見つけたら・・・」
残されたのは真っ白な世界。
もう答えは永遠に帰ってこない。
「・・・どう生きろと・・・。」
一人うずくまったオスカルは、顔を覆ったが、やがてゆっくりと立ち上がった。
・・・生きねばなるまい。
悲しみも苦しみも背負って生きねばならない。
ディアンヌもアランも、これからそうして生きていく。
アンドレもロザリーも。
パリの多くの貧しい市民たちも。
今まで生きて死んでいった全ての人々がそうであったように・・。
・・・人は皆、それぞれの苦しみを背負いながら生きていくのだな。
本当の苦しみを・・・今までどこか高みから見下ろしていた泥沼のような苦しみの底を、オスカルは初めて歩んでいた。
「生きるさ・・・アンドレ・・・何があっても・・・」
泥が足にまとわりつく。
だが、歩みを止めるわけにはいかない。
・・・私は、お前に恥じる生き様を見せるわけにはいかない。
呼ぶ名すらなかったものを、心の中で呼び続ける。
白い道はやがて薄暗く変わっていく。
オスカル、オスカル・・・。
アンドレの声が聞こえる。
オスカルは、ゆっくりと目を開けた。



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Author:kakonokaori
「ベルサイユのばら」の二次創作です。個人的な楽しみで執筆しております。原作関係者の方々よりクレームを受けた際には、中止します。お目汚しではございますが、お好きな方はご訪問下さいませ。

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