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嵐の果て5

バイオリンの弦が切れ、手の甲に血が滲んでいた。
気が高ぶったまま、オスカルは大声でアンドレを呼んだが、彼は姿を見せない。控えめながら廊下を走る気配がして、侍女たちが彼を慌てて探しているようだった。
「ふう~・・」
鋭い痛みを感じながら、オスカルは弦の切れたバイオリンを、そっとソファーの上に置いた。
自分の苛立ちを愛器が引き受けてくれたのか、少し冷静さを取り戻しつつあった。ジェローデルもさすがに屋敷から辞去しただろうと、オスカルは疲れた体をソファーの背もたれに預ける。
「冷静にならなければな・・」
自らの血の気の多さは十分自覚している。恐れを知らなかった若いころはもとより、今でさえ、綱渡りのような日々を送っているともいえなくもない。だが・・
「父上の思い通りになど、誰がなるものか・・。あのくそじじい!」
ともかく、まだ結婚したわけではない。幸いなことに自分は親の庇護がないと外出もできないような深窓の育ちではない。いざとなれば方法は必ずある。
父に男の跡継ぎを産めと言われた瞬間、何かがオスカルの中で壊れていた。
自分の中に存在したジャルジェ家の跡継ぎとしての自負の大きさに、彼女は失笑する。
「私である必要など、なかったのでございますね、父上。」
乾いた笑いを響かせたあと、彼女は呆然と・・今までに失ったものを数え始めた。
若き日の希望、国母としての王妃を支えること、近衛隊長の地位、ジャルジェ家の次期当主としての自負、フランス国家への信頼・・そして、フェルゼンとの友情、ロザリーの姉妹、アンドレの左目、そして、生まれるはずだった我が子・・
どれもこれも、女として生きていれば無関係だったものであろう。
自分の人生は、偶然から生まれたものだろうということは分かっているつもりだった。男装して宮廷に仕える女たちは存在したが、剣を持ち、馬に乗り、部下を従える女など、実に笑止千万な存在なのである。
・・果たしてどちらが幸せだったのだろうか。
答えられない。
分からない。
では、時間を戻してどちらかの道を進めと言われれば、それも今では分からない。
・・そう、私は、一度も悩んだことがない。
他の女性とは違う道を、嬉々として進んできたのだ。両親に銘じられるがままに嫁ぐ彼女たちに、同情や哀れを感じても、どこか他人事であった。アントワネットに、あなたは女の心が分からないと告げられるのが当然の、どこか思い上がった人間だった。
「所詮、女であったということか、私も。」
事実を、信頼していた父と元部下から突き付けられたのだ。
「神よ、あなたはずいぶんと皮肉な人生をお与え下さったことよ・・」
深い静かな闇が、心の奥に広がっていく。
聞きなれた足音が聞こえ、扉が叩かれた。
「・・遅いぞ。」
返事の代わりに不機嫌に言うと、アンドレがゆっくりと姿を見せた。
「遅くなってすまない。ワインを選ぶのに手間取っていてさ。俺を呼んでるって、何人もワイン倉庫に呼びにきたぞ。何かあったのか?」
「ああ・・・バイオリンが・・」
オスカルは傍らを指さす。
「弦が切れた。張り替えたい。」
アンドレは手に持ったワインの瓶とグラスを小卓に置き、近づいてきたが、オスカルの手に目をやり驚いていた。
「おい、血が出ているじゃないか。」
ぐいっと彼女の手をつかんだアンドレは、とっさに傷口に唇を寄せてきた。
「あ」
オスカルは自分の前で跪きながら、手を取っている男から視線を外す。頬が熱くなった。
「弦で切ったのか?」
アンドレが心配そうに覗きこんできた。
「血は止まりかけているけど、きちんと手当したほうがいい。」
そう言うやいなや、どこかに走っていき、すぐに走って戻ってきた。
「痛むか?」
丁寧に包帯を巻きながら、アンドレは訊ねてきたが、オスカルは首を振る。
「これぐらいの痛みなど・・神が我が手にお与えになった罰だと思えば大したことはない。」
「なんだ?それは?なんの罰だよ?」
「私の思い上がりと優越感への罰というところか・・」
首を傾げているアンドレの唇に、オスカルは怪我のない方の指でそっと触れた。
「私の血が・・」
「あ、ああ。」
自分の拳で無造作に拭こうとする男の手を押さえ、オスカルは彼の唇に、そっと自分の唇を寄せた。
アンドレは驚いていたが、オスカルが首に腕を巻き付けると、手にしていた包帯を落とし、彼女の背に腕を回し力強く抱きしめてきた。二人は感情をぶつけるように必死に抱き合い、唇を合わせ、吐息を漏らした。
「アンドレ、アンドレ。」
オスカルは男にぶつかるように体を預け、アンドレは支えきれず彼女を抱きかかえたまま絨毯の上に身を横たえた。
「だめだ、オスカル。誰かに見られたらどうする。」
自分を下敷きにしている女に、苦しそうにアンドレが言った。オスカルは彼の胸に肘をつき、顔を覗き込みながら答える。
「構わないではないか。偽りの婚約や意に添わぬ結婚をするよりも、お前と共に手打ちになるほうがはるかにましだからな。」
「馬鹿言うな。」
軽く抱きしめてきたあと、彼はオスカルを立たせ、ソファーに座らせた。
「お前も横に座れ。」
「あ、ああ・・」
躊躇しながら、アンドレも腰を下ろしてきた。
「・・・大丈夫か、オスカル?」
労わる響きに、彼女は素直に答えた。
「ああ、父上もジェローデルもくそくらえだ。」
フフっと笑う彼女に、アンドレが、そうか・・と呟いた。
「大尉は本気のようだな。」
「・・少佐に昇進したと自慢げに話していたぞ。」
「・・・そうか、少佐になられたのか・・」
アンドレは何かを考えるように目をつぶっていた。オスカルは、閉じられた目の上をまっすぐに走る傷を見ながら言った。
「安心しろ、誰がジェローデルと結婚などするものか。いざとなればお前と二人、外国に逃げればいい。私と二人では不満か?ん?ばあやも連れて行きたいか?」
アンドレが、否、と言う訳がない。
そう思っていたオスカルだが、不思議なことに彼は何も答えず俯いていた。顔色はすぐれず、膝に握ったこぶしが震えている。
「・・アンドレ?どこか悪いのか?」
彼は力強く首を振った。そして、意を決したように立ち上がり、言った。
「俺は・・行かない。」
「・・え?」
「ただ逃げるためだけなら、どこにも行かないぞ、オスカル。」
「どういう・・ことだ?」
「ジェローデルは、お前のことを本気で愛している。お前は考えてみるべきだ、どう生きることが本当の幸せなのかと。お前の前に、別な道が開いているんだよ。俺と生きるよりも遥かに自由に幸福になれるかもしれない道が。お前の大事な人生だ、すぐには決めず、よく考えて欲しい。」
「私はもう選んでいるぞ!」
カアッと、オスカルの頭に血が上った。
「馬鹿か、お前は!」
怒鳴りつけても、アンドレは頑固に表情を変えなかった。彼はオスカルに強い視線を向けていた。
「俺は・・いつもどこかで甘えていた。未来のお前が現れてから、未来のお前が俺を愛してくれた時から、お前と愛し合いたいと、そうするのが当然の権利だとどこかで思い上がっていた。だが・・その権利が本当に俺にあるのだろうか?俺はお前を手にするために、どんな努力をしたっていうんだ?ジェローデルのように昇進したわけでも、ベルナールのように自分の力だけで身を立ててきたわけでも、アランのように腕が立つわけでもない。ただ、幸運にもお前のそばで生きることができた・・それだけさ。俺がお前の従者でなければ、お前は俺に声すら掛けなかっただろう、存在すら知らなかっただろう。違うか?」
違う・・と言いかけて、オスカルは言いよどんだ。アンドレの良さは、毎日、太陽が与えてくれる温もりと同じなのだ。日々の彼を知らぬ者にどうして真価が分かるというのか。
「お前は、誤解している。私が求めているのは、そのようなものではない。」
「だが・・今逃げれば、事情が変わる。」
アンドレは悲し気だった。
「逃げれば、何の取り柄もない、片目の悪い男と生きることになるんだぞ。今の俺にはお前を不自由させない暮らしは無理だ。」
「暮らし・・」
「俺たちは、一度自由になるべきだ。未来からの呪縛から自由になって、自分を取り戻すべきだ、俺も、お前も・・」
空虚が、オスカルを襲った。
父や部下だけではなく、愛する男まで、今の自分を否定しているように感じ、ぬぐってもぬぐっても、その暗い感情は消えなかった。
「では、アンドレ、お前はどうなるのだ・・自由になって・・」
「俺は、お前の従者に戻るよ。そして衛兵隊の職務もきちんと果たすつもりだ。」
「そうか・・・」
オスカルは、静かにその言葉を受け止めた。
「では・・・ワインの封を・・開けてくれないか、アンドレ・・・」
「ああ。」
丁寧にワインのコルクが抜かれていく様を、頬に手を当てながら、オスカルは眺めていた。叫びたいほどの感情が胸の中で渦を巻いていたが、彼女はもうひどく疲れていた。自分が何者かと考えることも、ひどくおっくうだった。愛する男が、自分の世界に溶けてしまって、もうすでに欠かせないものとなっているのに、どうして彼はそれに知らないふりをするのだろうと、不思議だった。
グラスに液体が満ちる音がした。
手渡してくる男の指は懐かしいのに、触れることができなかった。
「もう、下がっていい・・」
オスカルの許可に、従者は頭を下げて振り向きもせず、部屋から消えた。
ワインはすぐさま飲み干され、すぐに満たされた赤い液体も、心の渇きをいやすように次から次へと消えていった。間もなく瓶が空になると、部屋の主は今度は侍女を呼び、ブランデーを持ってきておくれ、と言いつけた。

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Author:kakonokaori
「ベルサイユのばら」の二次創作です。個人的な楽しみで執筆しております。原作関係者の方々よりクレームを受けた際には、中止します。お目汚しではございますが、お好きな方はご訪問下さいませ。

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